【家族心理学研究者の第一人者にインタビュー


toshimayasuzou

志學館大学大学院教授
鹿児島大学名誉教授
 

 

十島 雍蔵先生

 

(先生の御所属はインタビューがされた当時のものです。) 

 

インタビュアー  山本 喜則

 

 

① 先生のご研究テーマについて教えてください

 

あのね、僕はもともと臨床家育ちではなく、理論好きの実験屋だったんですよ。だから、遅咲きの遅れてやってきたど素人の家族療法家っていうかね。家族療法とかシステム療法の学徒ではあるけれども、自分の自覚としては臨床家ではないのね。
この道40数年、家族療法の世界に入っておよそ20年くらい。僕なりにそこそこ臨床経験も積み、まじめに勉強はしているわけですよ。でも、どうしてもプロ意識がもてなくてね。困ったもんです。
僕が家族療法に首を突っ込んだ頃は、河本英夫さんがオートポイエーシス理論を紹介なさってた頃で。第一世代と第二世代のシステム論は家族療法ですでに使い尽くされていたって感じだったのね。だからまだあまりポピュラーじゃない第三世代のオートポイエーシス理論をシステム療法に適用したら、なにか新しい道が開けるのではないかと。
そうしたら、オートポイエーシスが僕の頭の中で2つの領域に結びつきまして。ひとつはナラティヴ・アプローチです。アンダーソン、グーリシャンのコラボレーティブ・アプローチとか、アンデルセンのリフレクティング・アプローチであるとか。あー、ナラティヴじゃないかと。オートポイエーシスをナラティヴの産出機構、ナラティヴを生み出すメカニズムがオートポイエーシスじゃないかって考えが浮かんでね。もうひとつは、もともと僕は仏教とか東洋思想好みでしたので。オートポイエーシスの勉強をはじめてみたら、なんだ仏教の考え方と似てるじゃないかって感じたんですね。例えば、鴨長明の方丈記です。「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」って。

 

山)たしかにオートポイエーシスですね。

 

そのあとも、「淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」と続くわけですよ。つまり、川の流れに浮かぶ泡は生まれたと思ったら消え、消えたと思ったら現れて、それがずーっと続いていく。オートポイエーシスと同じ表現じゃないかってね。
別の例ですと、「自然」って言葉ですけれども、西欧の方でネイチャーっていうと「物の本質」という意味ですが、中国では「宇宙の秩序」みたいなのを自然と言うわけですね。それに対して日本の自然は、自然の〈然〉は「しかる(そうなる)」ということですし、何が「しかる」かというと、自の字は「みずから」とか「おのずから」っていうことだから、"みずからそうなる"って。そうするとオートポイエーシスになるでしょう?

 

山)おー!

 

だから、日本の東洋自然主義はオートポイエーシスそのものだって読めるわけですよ。

 

山) そうするとオートポイエーシスは日本の文化になじみやすいという?

 

僕に専門というものがあるとすれば、東洋思想や仏教をベースにしたオートポイエーシスでしょうか。ベイトソンを読むときも、どうしても仏教思想を通して読んでいました。「こりゃ、仏教の経典にはこんなことが書いてあるぜ」って。
例えば、ベイトソンで二重記述とかダブル・ディスクリプションとかいうでしょう。教師が生徒を教え、親が子どもを育てる、というけれど、先生はどんな風に教えたらいいかっていうのは生徒に習うしかないわけでね。親もどんな風に子育てしたらいいかって、子どもに習うほかないわけですよ。ダブル・ディスクリプションでは、一方が他方へ働きかけたら、他方は一方へっていう感じで。そうしたらもう原因も結果もないわけですよね。原因が結果で、結果が原因。ダブル・ディスクリプションと横文字で言われるとなんかすごく新しいことのように思うけれども、仏教はで2千年も前からね、例えば「色即是空」といったら、「空即是色」と必ずひっくり返して表現するでしょう。この二重記述のやり方は仏教ではごくふつうでね。ダブル・ディスクリプションは仏教ではなじみのことだと。
そういう読み方するわけです。「ドーミティブ原理」を否定してベイトソンは「関係の先行性」、「まずはじめに関係ありき」と言うけれど、仏教では縁起(えんぎ)のことですね。すべては縁で生ずるんです。縁というのは関係のことですね。すべては縁(関係)によってひき起こされるわけですから、縁が生じなければ何も起こらない。これを「縁起なるものは無自性空(むじしょうくう)である」と言います。つまり縁起なるものは空だと言うんすね。自性というのは物の性質がそのもの自体で存在している、関係とは無関係にね。だからベイトソンのドーミティブ原理は仏教では自性ということになるんです。
よく十島先生は鬼か仏かって学生から聞かれるんですよ。僕は鬼でもなければ仏でもないって。でも関係次第で鬼にもなるし仏にもなるし。今日のインタビューは仏関係で(笑)。学生が単位落としてもらいにやってくるでしょう。その時は、僕は絶対やらんと鬼にならざるをえませんね。だから関係次第で鬼にもなれば仏にもなる、これが空の考え方なんです。

 

山) 家族療法の初期の先生方も東洋思想を学ばれてる方が多いような気がします。

 

本当にはずかしいことですが、自分たちがもっている大切な宝を、横文字で言われれば皆な飛びつくのに、日本語で言っても抹香くさいっていって。西洋合理主義が行き詰って、なにか新しいものを求めようとすると、東洋にはこんな考え方があるじゃないかと。向こうの人にとっては目新しい。でも、こちらにとっては当たり前過ぎて気づかないんですね。
専門は?と尋ねられると、システム療法やナラティヴ・アプローチにオートポイエーシスを取り入れる仕事かな。ただし、いわゆるオートポイエーシスっていうんじゃなく、仏教的、東洋的なものを土台にして。

 

ご覧下さい(学会でのワークショップ資料)。「T式カップル言語連想法(T-CWA)」。これは、今言ったことをただ抽象的にではなく、ひとつの技法として具現化したものなんです。このTは十島のTでして。ふつうにいう言語連想はユングタイプの連想法です。ご存じのように、これはあらかじめ用意された刺激語にただ一方向的に反応するだけで、被験者はきわめて受動的なんです。「カップル言語連想(CWA)」は、これとはまったく異なって、ふたりの間で単語で交わし合う会話のことです。

 

山) 先生の『家族システム援助論』の中でV型とW型というコミュニケーションが出てきて、V型は一方通行で切れてしまうけど、W型でつながっていくという。

 

そうですね、お互いが次々と連想語をつなぎ合って切れ目なく連想の流れを作っていきます。相手の連想語を聞いて自分の心に浮かんだ思いをひとつの単語に凝縮して相手に返すのです。とことん言葉の冗長さを削ぎ落として単語に圧縮します。そこに「沈黙」が生まれますよね。その沈黙ゆえに言葉が深みを増すことを期待しているんです。
おととい家族心理学会で「CWA」のワークショップをさせていただきました。皆さん「こういうやり方もあるんですね」とすごく興味をもってくれました。欧米はやはりキリスト教で、まず「はじめに言葉ありき」の世界ですからね。それに対して、東洋は「沈黙」を重んじて、言葉は使わないというか、言葉は仮論(けろん)。といいながら仏教ってものすごく言葉を大切にするんですけれども、言葉を立てない(不立文字)。
自分の考えや感情をぺらぺらしゃべるのではなく、言葉を抑制すると、不思議なもので思いが深まります。でもその深い思いをひとつの単語に凝縮して表現するのはとても難しいことです。皆さん自分のボキャブラリー不足を痛感されたみたいです。
日本に俳句ってあるでしょう。蕪村に「菜の花や 月は東に 日は西に」という句があります。この17文字の中に全宇宙が表現されているわけですね。「CWA」も同じで、〈思い〉のすべてがひとつの単語に投影されます。そして、刺激語は反応語、反応語は刺激語という関係でずーっとつながってゆくのです。僕はそれだけでいいなーって思っているんですが。
でもそれだけでは意味が通じないので、30回ずつ計60回実施した後で、一連の連想語について「リフレクティングする会話」を行います。アンデルセンのリフレクティング・プロセスから得た発想です。一つひとつの連想語について「それを言ったとき、何を考え、どう感じていたか」に再度思いめぐらせながら語り合うのです。セラピスト側もきちんと自分の思いを自己開示しなければなりません。これコラボレーションですからね。そこに深い思いに根ざした新しいナラティヴが会話のなかで展開されることを意図しているのです。

 

山) すごいナラティブ。オートポイエーシスですね。

 

まったく知られていません。なにせ本邦初公演ですから。でも皆さんすごく楽しんで下さいました。

 

山) よくチームリフレクティングとかありますが、お互いの会話について、後ほどお互いにリフレクティングするっていうのは面白いです。

 

CWAの終了後に、クライエントとセラピストが一対一で、一つひとつの連想語についてお互いの思いをリフレクションしながら会話していくのですが、CWAでとにかく大切なのは言葉を極端に削ぎ落として、沈黙をふくらませること。あたかも禅問答でもするかのようにです。これって東洋的でしょう?

 

山) 円環的質問法とかありますが、それよりは単語に削ぎ落としたほうが、言葉に対する反応というのも単語になるというコミュニケーションの関係性を狙ってるってことなんでしょうか?

 

言葉をとことん削ぎ落とす。無駄な言葉は使わない。そうすると相手や自分の言葉に対する感受性が研ぎ澄まされます。ぜひ一度試してみてください。ただし、ふたりの思いが深いレベルで響き合うように「CWA」を進行するためには、「沈黙」の間合いの取り方など、セラピストには経験の積み重ねによるかなりの熟練が必要になります。
今お話したようなことをね。真剣にやってはいるんですが、専門といえるかどうか。

 

② 家族心理学に出会ったきっかけを教えて下さい。

 

僕の恩師は、道元禅の心理学を専門になさっていた秋重義治教授です。僕自身は先生のもう一つのテーマだった知覚恒常性の実験的研究をやらされていたんですが、「門前の小僧、習わぬ経を読む」で禅にも傾倒してましてね。
その秋重先生が僕に与えてくれた研究テーマがサイバネティクスだったんですよ。ウィーナーの『サイバネティックス』の本が日本語に翻訳されたのが昭和32年、僕が大学院に入ったのが昭和35年。だからまあ、出たばっかりの本を渡されて、これで知覚恒常現象を理論化しなさいってね。僕にとっては「隻手の音声」を聞くようなもので、なにも訳がわからないままサイバネティックスにとりつかれてね。サイバネティックスとかシステム論とかをやり始めてあれからもう40数年も立ってしまったんですねぇ。
それでサイバネティックスを勉強してたら、当然ベイトソンに出会うわけです。ベイトソンを仏教思想で読んでいく。あるいはベイトソンを通して仏教の勉強をする、そういった読み方をしているうちに、だんだんとベイトソンのサイバネ的認識論とかコミュニケーション理論に惹かれていきました。『精神と自然』や『精神の生態学』などを読みふけってましたね。そうしたらもうMRIであるとかミラノ派であるとかはすぐそこにあるわけでしょう?
長年やってきたサイバネティックスやシステム論を一番うまく利用した心理療法ってのはやっぱり家族療法だったのね。だから自然と家族心理学や家族療法の世界に入れました。

 

山) 家族療法を勉強し始めて20年くらいとおっしゃってましたが、サイバネティックスを通してベイトソンなどを大学時代から学ばれてたということは家族療法に対する素養はあったわけだったんですね。

 

あまり意識はなかったですね。だから『心理サイバネティクス』の本の中には"家族"という言葉は書いてないんじゃないかな?ただあの時はサイバネティックスのフィードバックとその対概念であるフィードフォワードを組み合わせて「B-F式制御モデル」で心理現象を理解しようとしていました。あの本それ自体は家族療法とはあまり関係ない(笑)。

 

山) でもすごく重要なところが含まれてるって感じます。

 

だから家族療法をやってる人たちがあの本を読んで面白がってくれるんですかね。僕は忘れてしまった(笑)。

 

③ 十島先生にとって師または影響を受けた人物はどなたでしょうか?

 

もちろん秋重先生。家族療法家じゃないですが、思想的というか研究する態度として今もって離れられません。
僕を家族療法に導いてくださったのは亀口先生。まだ九州にいらっしゃった頃、亀口先生のところへ通っていました。もう一人上げるとしたら長谷川啓三先生です。おふたりとも年は僕より一回り下なんですけども師として尊敬しています。あのふたりは大学人だから基礎がすごくしっかりされているし、もともと実験家でしょう?ふたりには絶対頭が上がらない。
もう一人。僕は吉川悟先生の隠れファンなんですよ。吉川先生の書かれたものはできるだけ目を通すようにしています。あの方もオートポイエーシスに造詣が深いからとても共鳴できるんです。
実験から臨床の世界に入ってね、ちょっとあれ?っと感じたのは、ケース研究や「臨床の知」っていうのはとっても大切だと思うんですけれども、臨床が臨床で一人歩きしてしまってね、基礎となる研究が少ないのではないかと。基礎研究をもっとしっかりしないと家族療法そのものが発展しないのではないか。底が浅いと上には伸びれませんから。

 

山) 長谷川先生もおっしゃってましたが、研究も臨床も両方で補い合ってそこから超えていくっていうことなんでしょうか?

 

長谷川先生とか若島先生や生田先生といった、いわゆる東北学派の研究のやり方っていうのは批判する方もいるけれども、僕はすごく評価しています。医学がこれだけ発展しているのは、医学の基礎研究ってすごいでしょう?基礎研究の領域がきちっとあるわけでね。薬物療法にしたって、開業医が新薬を開発するわけじゃない。そういった意味で臨床の基礎研究っていうのはとても大事だと思う。
僕の「カップル言語連想法」の研究もそうなんですけど、システム療法であるとかナラティヴ・アプローチの基礎研究のつもりなんです。実験的な研究は、たいていは無駄で臨床にすぐ役立つわけじゃないけど、だけど基礎的なデータを積み重ねているうちにぽっと何か新しいものが生まれてくる。
でもこれは大学人の言い方でね。開業なさっているいわゆる臨床家の方にはそれじゃ間に合いませんからね。今あるものをうまく使う以外にない。でも誰かが基礎的な研究の部分を分担しなくちゃあ。誰かといえば、大学人かな。喰うに困るわけじゃないから。
一方、なぜ僕が吉川先生に憧れるかというと、僕は臨床家じゃないからね。あの臨床力すごいなって思うわけですよ。いつかああなれたらいいなって。なれるわけないけど。

 

④ どのような問題意識から活動、研究をしていらっしゃいますか?

 

そういう質問困るなぁ。問題意識なんてあるのかなぁ。無責任にその時々の興味に駆られながら、ただ好き勝手なことをやっているだけなのでね。すべては運と縁。
とはいえ、柱のひとつというか、心理臨床というのは生活臨床でなきゃーという思いは強いですね。実生活に根ざしてないと。家族療法だってそうですけども、家族の生活がたまたまちょっと変化しただけで問題が解決するっていうことあるでしょう?いくら言葉だけで話し合っても埒明かないのに。
僕には今年40歳になる長男がいるんですけど、知恵遅れでね。体はもうりっぱな大人なんですが心はまだ3歳にも満たない。質が違うから何歳とはいえないんだけれども。だから教鞭を取る傍ら、福祉活動の方もずーっとやってきました。単なる親ばかでね。ただひたすらわが子可愛いさでね。世のため人のためという意識はまったくありません。
福祉は生活ですよ!この子どもたちを幸せにしてやりたいと思ったら。生活臨床に根ざさない心理臨床なんってのは泡みたいなもんです。上質な心理臨床というのは、ごくふつうの日常生活の営みのなかで専門性であるとか技法であるとかが、さりげなく活かされるようなものじゃないとね。あまり理論や技法が目立ち過ぎちゃいけない。

 

山) 家族療法は理論的、技法的って言われることもありますが?

 

解決志向アプローチなんかもそうなんですが、でも考えてみたら、別に新しい技法って訳じゃなくってね。結局は日常生活のなかでごく自然にやられていることでしょう?そういったもののなかから、うまくいっているものを抽出して、それを理論化し、技法として体系化したものがいわゆる心理療法といわれるもので。もとはといえばすべて日常生活のなかにある。
ベイトソンなんか観察の天才ですからね。日常のなんでもない親子や夫婦のやりとりを観察して、そのなかからダブル・バインドみたいなものを抉り出す。ダブル・バインドって言われるとうわーっと思いますけれども、でもそれは家族のなかでは自然に行われている会話ですから。
ただ、日本でダブル・バインドというのはどうなのかな?ダブル・バインドの成立の根拠は、①肯定か②否定かという西欧合理主義の二価値の論理にあります。これに対して、東洋思想の根本は、③「肯定でもなく否定でもない」(両否のレンマ)、だからして④「肯定でもあり否定でもある」(両是のレンマ)なんです。これを合わせてテトラ・レンマ(四論)といいます。この両否と両是の論理が当たり前のこととして認められている文化では、ダブル・バインドなんてごくふつうのことで逆説でも何でもないですからね。
解決志向アプローチでも、子育ての上手なお母さんはなにも知らないままうまく使っていますよね。だから専門的な技法を使うときも、もとに戻して生活のなかでさりげなくっていうのが大事なんだと思うんですよ。

 

⑤ 最近社会問題について気になるテーマがあれば教えてください。

 

娘が子どもを産んで6ヶ月と1歳6ヶ月の孫がいるんですよ。娘はちょっと遠くに住んでいたんですけど、最近車で5分ぐらいのところへ引っ越してきてね、もうたまらんって感じです(笑)。
それで、わが身を振り返って、「三世代子育て論」みたいなものを考えさせられるわけですよ。家族を核家族に限定して、親子関係だけで育児を捉えようとするから、育児ノイローゼだとか育児ストレス、育児不安などが問題になるじゃないかって?地域の子育て支援も重要だけれど、一番身近な祖父母の育児参加をもっと見直してもいいんじゃないかってね。母子二者関係から祖父母を含めた三者関係に開かれた子育てを!実際にはそうやっておられる家族も多いんでしょうけど、考え方としてね。親子関係という閉ざされた関係だけで見るのではなく。
ただ現代の三世代を取り上げる場合、どうしても社会問題にもなっている団塊世代と団塊ジュニアという世代の特殊性を考慮せざるを得ないって思うんですよ。今、子育てしているのは団塊ジュニアで、団塊ジュニアを育てたのが団塊世代。その団塊世代がどのように育ち、団塊ジュニアがどのように育てられたか、団塊世代の子育てはうまくいったのか、が問われなければ。団塊ジュニアは、フリーター、ニート、ひきこもりの世代ですよね。
「大きなのっぽの古時計・・・今はもう動かないその時計♪」って、いったいあの古時計ってなんだったんでしょうね。子育ては伝承文化っていいますけど、僕は昔からずーっと日本に生きつづけてきた伝統的な文化のことだと思うんですよ。それが今はもう動いていない。昭和20年の敗戦以来止まってしまったんですね。団塊世代は、受け継ぐべき大切な日本文化が停止状態のまま育てられ、そしてまたそのまま団塊ジュニアの育児をしたんじゃないかな?
60年間大きな古時計が止まってしまっているんなら、60年かけて大きな古時計をね、もう一度動かすようにしなければね。これが私たち臨床家の務めじゃないかって。生き方のバックボーンになるような文化とか歴史とかがないと。生きていけないわけですよ。現代の団塊ジュニアの子どもたちが起こすいろいろの問題の根もとにはこういうことがあるわけで、いくら口先だけで受容と共感と傾聴っでいきましょうってね(笑)。背骨がないまま、「それで相手は生きていけるのか?」って。三世代子育て論で大切なのは、子育ての伝統文化をどう継承していくかっていうことだと思うんですよ。

 

⑥ お勧めの本/御著書があればご紹介をお願いします。

 

吉川悟先生の『家族療法―システムズアプローチの(ものの見方) 』。それから『ナラティヴ・セラピー入門』なんかが読みやすくてお勧め。その他にも、家族療法関係の優れた本はいろいろありますけど、学生に何か1冊って言われれば、これかな。
山内得立の『ロゴスとレンマ』。もう絶版になってますから図書館でしか読めませんが、東洋思想の根本が詳しく述べられていてとても興味深い本です。ぜひ皆さんに読んでほしいと思います。それから当然ですけどベイトソンの『精神と自然』とか『精神の生態学』。それとマトゥラーナとバレーラの『知恵の樹』。これにはオートポイエーシスがかなり分かりやすく書かれています。それからもう一つあげるとすれば、チオンピの『感情論理』。これはフロイトとピアジェ、感情システムと知的システムをドッキングしており、オートポイエーシスを知らなくてもとても面白く読めます。
今あげた本は家族療法やシステム療法の臨床に直接関係はないけど、その背後に流れる基礎理論として重要です。家族療法の本を読む傍ら、これらの本を読めば臨床が深まると思います。

 

山) 背骨の重要性ですね。

 

山) 先生のご著書からもお勧めいただきたいです

 

ネクストワン!誰だったか有名な小説家でね、「今までのあなたの最高傑作は?」って聞かれて「ネクストワン」って答えたんだって。僕もね、一度書き上げた本なんて二度と見たくないし(笑)。だからネクストワン。実はいま印刷中の本があって、『発達障害の心理臨床』(ナカニシヤ出版)がもうすぐ出版されるんです。発達障害の家族療法の本です。
家族療法の対象としては発達障害なんて傍流ですよね。でも、発達障害のある人にもふつうの人と同じような問題が起こるんです。当たり前ですけど。発達障害そのものは家族療法やシステム療法ではどうしようもないけれども、発達障害があるが故に不適応現象を起こす比率は、ふつうの人よりずーっと高いんです。だからそれに対して家族療法家はもっと真剣に取り組んでいいんじゃないかってね。

 

山) 先生の場合、実際にそういった家族の方にたくさん関わってらっしゃるから生まれてきた発想ですね。

 

わが子がわが子なもんで。どうしても結びついてしまいます。発達障害のある人が心身症や神経症などを起こしても、「これは発達障害だから仕方がない」と障害のせいにされてしまうことがあまりにも多すぎるんですね。発達障害の療育でもっとも重要な柱は「家族支援」ですよ。家族システムさえ健全なものであれば、発達障害を抱えながらそれなりに子どもは成長していくわけですからね。でも、発達障害をめぐって家族に独特のシステムが出来上がっていることがよくあります。そこのところに家族療法家はもっと目を向けていいのではないかなぁ。

 

山) 固着したような?

 

障害に固着してしまって、独特の閉ざされた絡み合い家族みたいなのが出来上がっている。それに関わっていると、逆に健康な家族システムっていうのがよく見えてくることがあるんです。そういった意味でネクストワンの本をぜひ読んでほしい。

 

⑦ 家族心理学・家族療法を学ぼうとしている学生や関心をもたれている方に一言、ゼミの紹介をお願いします。

 

僕は家族療法の単なる学徒ですし、まだ修行の身ですので。ただ僕自身が大切にしていることといえば、"弟子になりきる"ということでしょうか。
司馬遼太郎が「アイデンティティ」を氏素性の"素性"って訳してるのね。つまりエリクソンのアイデンティティっていうのは、人とどこが違うかという"違い"が強調されますよね。ところが日本人のアイデンティティというのは、あの人と「同じ」だという点が重要だっていうんですね。どこの育ちか、どこの馬の骨かっていうのが分かるってことが大切だって。
例えば、親鸞にしたって道元にしたって日蓮にしたって、鎌倉時代に世界に冠たるオリジナリティの高い仏教を作り上げた、あの人たちは皆なとことん釈迦になりきろうとしたんだそうですね。でも時代は違うし人は違うし、どうしようもなく道元は道元、親鸞は親鸞になってしまった。そこがすごい。なりきるっていうのはそういうことです。
だから僕は院生に、若いうちは、「私のオリジナリティはどこにあるんですか?」みたいなことを言うなと言ってるんです。縁あってその先生についたのならその先生の弟子になりきること。その先生の一から十まで全部盗み取ってしまうこと。そうしてはじめて君は君になるみたいなことを。そこからしかアイデンティティは生まれてこないって。家族療法家でもない秋重教授に心酔したことで、今の僕は今の僕。

 

山) 先生のゼミのご紹介もお願いします。

 

うちの大学の大学院には、僕も含めて家族療法家が3人います。他にも交流分析やロジャーズ派などいろんな専門家をできるだけ偏らないように集めました。でも、どうしても家族療法の方へ片寄ってしまって。家族療法志望の学生も多いですよ。学生には臨床心理学の領域を広く学ぶようにさせていますが、研究で指導教員につくときには「なりきれ!」って指導しています。せっかくの縁なのにもったいない。
でも院生は臨床心理士になるのが希望でしょう?だから僕みたいな話っていうのは嫌われるのね。資格試験に出ないからね。院生の関心はただ試験に出るか出ないか。出ない話は、馬の耳に念仏っていうかね、なんかむなしいなーっていう感じ。

 

山) その先の問題なんですけどね(苦笑)

 

いい臨床心理士になるっていうことよりもまずは資格。そのためにはあの難しい試験になんとか合格しないといけない。だからむしろ過去問の授業をしたりすると喜ばれるんだろうけど(笑)。

 

山) それでは、こんなゼミ生が来てくれるとうれしいという希望はありますか?

 

僕に傾倒して、仏教的オートポイエーシスを勉強したいっていうのがいいですね(笑)。やっぱり東洋思想に根ざしてね。クライエントの99%は日本人なんですから。「カップル言語連想法」と取り組んでくれる跡取りがほしい。言葉をとことん削ぎ落として単語と沈黙で会話をする術(すべ)を身に着けてた熟練者になってほしい。「相手が今発した単語を聞いて自分の内面に浮かぶ思いを次の単語でどう表現して接続するか。」この一瞬の局所的な経験を積み重ねる訓練は、心理療法家としてもいい訓練になると思うんですがね。
院生は誰もこれに関心ないもの!僕の学生は。授業でやらせてはいますけどね。修論でやりたいとかね、これを研究したいなーとかいってくれる人、誰ーれもいないもんね。悲しい・・・(笑

 

山) ポストモダン-カラスがかーとないたら状況がかわるというか、そういうのを意識的に言葉を凝縮していくことで作り出そうとしているのかなと感じました。

 

もともとの発想はポストモダンや社会構成主義ですしね。ふたりの間でナラティヴを単語に凝縮して紡いでいくという。そこに新しいストーリーが生まれればいいな、と期待して。相手の単語に対して一瞬一瞬どううまく単語を返すかが勝負。

 

山) これを極めるっていうのはかなり大変そうです。

 

経験を積むしかないですね。実は僕は下手なんですよ。臨床家じゃないせいか。だから僕は自分を脚本家だと思ってるのね。これを舞台で演じてくれる人がいないとね。フロイトにしたって治癒率が高かったわけじゃなかった、治療が上手じゃなかったみたいですからね。それで僕は自分を慰めてる(笑)。僕は脚本家で理論づけとかこういった技法を使ってみたらどうって提案はできますけどね。それを誰か上手に演じてくれないかなーって。だから俳優がほしいの。僕の学生が俳優になってくれないかなって思うけど、そっぽ向いてるもんね。「親の心子知らず」っていうか。

 

山) 俳優募集中ですね(笑)

 

 

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