スイス・イギリスでのADHD児対応事情

 

執筆者:TK

 


 

 

 

 

 

 

 

「息子さんについて、インフルエンザよりも心配なことがあります」

 とスイス人の老医師に真顔で言われたのは、夫の仕事でスイスの中都市、バーゼルへ家族帯同で赴任して2ヶ月目のことだった。

 

 

 

日本では学校活動が支障をきたすほど、新型インフル患者が続出していた冬。人口密度が低く、相対的に医療衛生意識が高いスイスでは、それほど罹患者も報告されていなかった。中学生の娘と幼稚園生の息子が通うインターナショナルスクールでも、その一年でたった2人しか罹患例が出ていないほどだったが、バーゼルという街は世界的な製薬会社の本社がひしめく、製薬で潤う都市としても有名。中でも特に地域政治への影響力が強く、その新型インフルのワクチンを独占的に製造販売していた、ある巨大製薬会社が、住民へ無料でワクチン接種を提供するという大盤振る舞いをしたのだ。

 

 

 

スイスとはいえ、スイスドイツ語が主たる公用語のバーゼルで、きちんと診療ができるほど英語の喋れる医師を探すのは意外と難しい。インターナショナルスクールのつてでようやく受け入れてもらったスイス人の小児科医は、落ち着いて優しい老医師だった。

 

 

 

その医師のもとへ、4歳半の息子を連れてワクチン接種に行った日、もともとカンが強く「育てにくい」タイプだった息子は、医師が英語(当時の息子は英語を理解できなかった)を喋りながら注射器の針を出した瞬間に、恐怖からパニックになった。大声を上げて暴れ喚き、「大丈夫だよ」と押さえようとする私を振りほどいて蹴り、私の顔を叩こうとした。でも、そんな癇癪は日常的な姿だったから、私は慣れた風でその手をよけて息子の手を押さえた。すると、一連の様子を驚いて眺めていた医師は、「今日はやめておこう」と言って注射器を片付けながら、「息子さんは、いつもこうですか」と静かに尋ねたのだ。

 

 

 

「息子さんは、頻繁にこのように暴れたり、母親であるあなたを叩いたりしますか」

 

「息子は怖くてパニックを起こしたのだと思います。残念ながら、彼は癇癪を起こしやすいので、足や手が出ることはよくあります。いけないと教えてはいるんですが」

 

「もっと小さい時からこのような状態ですか」

 

「そうです。彼の性格だと思います」

 

その会話の間に、パニックが収まった息子は椅子に座ったまま、両手を何かに見立てて顔の前で忙しく動かし、「シューシュー、バーン、ドドドド」と効果音を口にしていた。

 

「あれは、何をしているんですか」

 

「車のレースや、TVで見たヒーローもののアニメーションの戦闘シーンを再現しているんです」

 

「こういう仕草もよくするのですか」

 

「はい、自宅でも、電車やバスの中でも、ふとした時にあの仕草で熱中しています」

 

 

 

医師はしばらく考え、机の引き出しから書類を出した。その書類を見せられながら聞いた話はこうだ。その老医師は、小児科医であるが実は発達障害を専門としている。英語を喋れるのは、製薬会社から派遣されて、米国の大学病院で発達障害の研究を長くしていたからだ。この子はADDかADHDを持っている疑いが濃い。息子さんの振る舞いと性格について、この質問表に記入して欲しい。それから、彼が生まれたときからのエピソードを、できるだけたくさん書いて欲しい。気がついたこと、困ったことなど、幼稚園であったことなど、何でもいい。それが判断の材料になる。母親のあなたは今びっくりしているだろうが、こういう子どもはたくさんいる。専門家の診断と適切な対応があれば、息子さんだけでなく、家族も、息子さんの学校の友達や先生も楽になるのだ。

 

 

 

ずっと、ひょっとしてそうかもしれないと頭の隅で疑いながらも、賢明にそれを否定する材料ばかり探してきた母親の私には、「とうとう来た」と思った瞬間だった。それよりも、「あぁ見つかっちゃった」の方が正しいかもしれない。自分自身には違うと言い聞かせてきたけれど、専門医から見るとやっぱりそうだったのか、正直言うとそんな気持ちだった。

 

 

 

ある意味で「現場を押さえられた」わけで、私は反論しなかった。それと時を同じくして、通学を開始していたインターでも問題が噴出していた。もともとの激しい性格の上に、英語が全く理解できないので、まず朝の母子分離への抵抗が激しさを極めた。インターの方法では、子どもが早く環境に慣れるように、母親はさっさと教室から出ていかねばならない。暴れて泣く息子を先生がしっかり抱きしめて、その先生を息子は4歳半ながら渾身の拳で殴りつけてしまうのだった。

 

 

 

外国人の友達が、間違って息子の足を踏んでしまったり、息子の遊んでいるおもちゃを誤って取ってしまったりなどのトラブルも、いちいち事が大きくなった。息子がカッとして癇癪を爆発させ、咄嗟に友達を叩いてしまい、大騒ぎになる。相手の親も出て来る。毎日迎えに行く度に、先生達は困り果て、疲れ果てていた。母親の私も、通学を前にすると「いやだって言ってるだろ!」と手当り次第にモノを投げて大暴れする息子をなだめてすかして、毎日言葉の通じない学校に引きずって行くことに何の意味があるのかと、悩んで疲れ果てていた。

 

 

 

権利意識の高い欧米人の親は、学校に授業料を納めている以上、自分の子どもに最上の環境を望んで当たり前だと考える。新入生の我が息子は、一時的であるにせよ、言語的にも行動上でも、他の子どもよりもケアを必要としていた。先生達がかかりっきりになっているのを見た何人かの親が、「教員の手が足りず、他の子どもがなおざりにされているのではないか」と、突然クラスの分割と教員の増員を学校へ要求した。インターは生徒の転居による出入りが激しい。クラスをどこで分割するか、それは夏以前に入学した子どもと、それ以降に入学した(今後してくる)子どもで分けろという。息子のクラスで、夏以降に入学した生徒は息子一人だった。この出来事は、私の耳には、暗に息子が入学しなければクラスは平和だったという「拒絶」として響いた。

 

 

 

クラス分けの問題はその後収束したが、時を同じくした「突然のADHD宣言」と「拒絶」の経験は、私自身の子育ての自信をすっかり奪い去ってしまった。この子はスイスでは学校に通えないのではないか、この子は西洋文化では受け入れてもらえない「フツーじゃない」大問題児なのではないか、もう友達なんか一人もできないのではないか。スイスは静かに大人の言うことを聞く子どもが良しとされ、公共の場で騒ぐ子どもには非難の目が注がれる。でも、バーゼルには日本人学校はなく、スイスドイツ語を話す現地校か、インターかの選択肢しかない。私が、このインターに息子が楽しく通えるように、先生や医師と協力して道をつけるしかないのだ、と腹を括るまで、少し時間がかかった。

 

 

 

息子の担任の先生に、小児科での経緯を相談してみると、彼女の反応は「そうだとしても、不思議ではないわ」とのことだった。ハーバードの教育学修士を持つ60代のその先生も、幼児の発達心理学が専門だった。息子の発達障害を疑ってはいたものの、言語や(日本との)文化的な違いかもしれないと、慎重に観察してくれていたのだ。副担任の先生も頷いていた。ただ、私と先生達の間では、この子は現状では振る舞いには問題があるけれど、とても知能が高く、周囲の子どもよりも学習能力があるという見解で一致していた。

 

 

 

小児科医に提出した書類の結果は、やはり「ADHDが濃厚」だった。ただ、重度ではなく、まだ成長途中なので、いずれ成長に従って自分でコントロールできるようになる可能性も大きい。実際の診断は小児精神科やセラピストなど、複数の専門家に診てもらってから多面的に判断するという。また、あまりにも日常生活にきたすようであれば、投薬も考えようということだった。奇しくも、バーゼルに本社を置く巨大製薬会社は、ADHDへの処方薬として世界的シェアを持つ薬を製造しており、老医師はその会社から米国へ派遣されて研究生活を送ったのだった。日本から発達障害の本を取り寄せたりして調べ始めていた私は、老医師へ明確に「我が家は投薬はしません、それから、ADHDの診断が必要なほど重度であるかどうかは、息子が6歳になったときの成長状況を見て判断します」と告げた。老医師は学校の担任にも電話で学校での様子を質問してきたが、先生もまた「今は診断を下すには早すぎる、まだあと1年は待つべきだ」と主張し、私の味方になってくれた。

 

 

 

それからの私は、とにかく息子が学校でスムーズにコミュニケーションできること、そして何よりも周りから「頭のおかしなヤツ」ではなくちゃんと扱われ、自己肯定感をきちんと持てる環境を作ろうとした。「日本だったら『ちょっとやりにくい子』として、そのまま何となく学校にもいけたのかもしれない」と、日本と欧米との違いに悩んでみたりもしたが、日本人としてのアイデンティティどうこうは一旦脇に置いた。とにかく彼が置かれているスイスという国、そしてインターナショナルスクールで「受け入れられる」よう、ひとまずは英語をきちんと聴き、話し、読み、書けるようにと努めた。静寂を好むスイスでは、公共交通機関では子どもは騒いではいけないので、息子にもそれを徹底した。TVは全部英国のチャンネル。私自身が息子と英語で会話し、絵本を読み聞かせ、読み書きを教えたら、息子は見る間に吸収していった。

 

 

 

インターでも表彰されるほど短期間で英語力を伸ばした息子のために、私はちょうど保護者会で出会った、米国の大学と韓国の英才児向け幼稚園で英語を教えていたという韓国人の女性を「息子の家庭教師になってくれないか」と言って誘った。彼女とは家族ぐるみで行き来する親友になったが、教師としても優秀だった。息子は、インターにいる英米人の子どもよりも早いスピードで読み書きの能力をつけ、癇癪もすっかり落ち着いた。教室の中では「変わってるけど、面白くて、デキるヤツ」として、人気者になった。

 

 

 

息子は友達をどんどん増やし、自分の「立ち位置」ができた。言語的に意思疎通が出来るだけでなく、彼はもともとジョークを言うのが大好きだ。また、英米の子どもの中で大人気のアニメーションや本にも詳しく、それらの絵を上手に書くので、子どもたちが息子の周りに集まった。上の学年にあがると、あるアメリカ人の男子と同じクラスになった。その子はADDの診断書を持ち、投薬とセラピーも並行していた。学校では、普段は普通学級にいるが、英語や算数などの時間になると一人だけ特別支援クラスで指導を受ける。投薬の影響もあるだろうが、のんびりと穏やかな子で、その母親(彼ら夫婦はともに米国の医師である)と私は、方針は違うが同じ問題を共有する仲間として、やはり親しくなった。あんなに辛かった学校は、いつのまにか楽しい場所に変わっていた。

 

 

 

その頃、夫の次の赴任先がロンドンに決まった。ちょうど学年が一つ上がった息子の担任はロンドンで小学校教師を長く務めていた英国人で、彼女に「英国ではADHDはどのように対応されるか」を相談した。学校選びにも助言を得て、息子には少人数制で、規律がしっかりしており、勉強に熱心で、なおかつ特別支援の専門家が常駐している学校を探すこととなった。条件に合うような良い公立校はどこも一杯で、長いウェイティングリストに入らねばならない。条件にぴったりで家からもほど近い私立校に入学を申し込み、受理された。(だが、その前に申し込んだ私立校では『専門家がいないので、特別支援が必要な子どもは受け入れられない』として冷たくあしらわれたことも付記しておく。英国の全ての学校がADDやADHD児を受け入れられるわけではない。)

 

 

 

あと数ヶ月で7歳になる息子は、海外駐在当初のあの嵐をすっかり忘れ、スイスは楽しいことばかりだったと言う。そして、いまの英国での学校生活も仲間や先生にめぐまれ、毎日楽しくてノリノリだ。自分は頭が良くて面白いと自負し、算数では人に負けたくないと競争心も強い。そのような自己肯定感を維持するには、もちろんこれからも継続的な努力が必要なのだけれど、ADHDの(またはADHD『的な』)子どもには、その自己肯定感こそが社会性とセルフコントロールの鍵にもなるのではないかと思っている。周囲から尊敬されるということで、彼の自制が働いている。

 

 

 

結局、息子は正式なADHDの診断は受けぬまま、そして特別支援クラスに一度も入ることなく、現状に至っている。成長に従って激しい癇癪や暴力などの振る舞いはすっかり落ち着いたが、極度に疲れているときや、苦手なこと、新しいことに取り組まねばならずストレスのある時には激情の片鱗を見せることもあり、また手をレーシングカーや怪獣に見立てて「シューシュー」と言いながら遊ぶ振る舞いも健在だ。

 

 

 

ADHDは脳の情報処理の癖の問題だから、「治る」ことはない。が、成長に従って社会適応の度合いを深め、より「健常」に近づいていくことはできる。よく身の回りにいる「よく出来るんだけど、ちょっと変わった性格の人」や、あの起業家やあの芸能人だって、本当はADHDかもしれない。ADHDは遺伝的な要素があり、スイスの老医師は、私に「家族や親戚の中にADHDの人はいるか」と尋ねた。私の親戚にも、夫の側にも、そう言えばと心当たりはどっさりいたが、そんな犯人探しのようなことをしても仕方がない。確かに変わっているが、とても才能に溢れた人達ばかりだ。私だって自覚していなかっただけでそうなのかもしれない、と自分自身を見つめる契機にもなった。

 

 

 

最後に、ADHD児の親は、その子の一番の味方になってあげて欲しい。親がその子の性質を受け入れ、適性を見抜き、励まし導くことで、本人は「自分っていい感じ」と幸せに成長することができる。育てにくい子どもには、きっとその反面、他とは違う宝石が隠されているのだ。

 

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